いじめと小さな集団世界

えー、普通の人はいじめってのは、「ちょっとしたじゃれあい」みたいに思ってると思う。
でもね、実は多くのいじめってそういうものではないんです。

普通の社会で行われると犯罪になるようなことが学校とかでは行われてるんですよ。
法治国家に所属しているのだから、(学校という特殊な環境であったとしても)
いじめのような無法が許されるべきではないんです。

なぜいじめ問題がなくならずに延々と発生し続けているんでしょうね。
集団の中に純粋な利害関係があり、その利害関係だけですべてが決定されていい世界であれば、
いじめがあろうがあるまいがまったく問題はないです。無法状態では力を持ったものが正義であるのだから。
集団が世界であり、集団の調和こそが世界の調和と一体化しているのであれば
その集団の中での利害関係がうまく行っていればそれでいいと言える。

まるで漫画「北斗の拳」みたいですけど、「暴力がすべてで正義」っていう世界ならそれはそれで統一がとれている。
そういう意味では北斗の拳の世界は正しいんです。。

しかし、実際には今の現実の社会ってのはそういうワイルドな世界じゃないんです。
特に日本は一部を除いて「道を歩いているといきなり襲われる」といった世界じゃない。
だから、大きな社会の枠組みを無視して、
小さな閉鎖的な集団の利害関係の要素のみで挙動を決めていいはずがない。
「社会という大集団のルール」ってものがあるはずなんです。

普段の学校生活の中ではクラスという単一のグループにだけ所属しているように見えるんですけど、
「そのクラスだけがが世の中に存在している」というわけじゃないです。
クラスは学校の一部であり、学校は地域社会の一部。
生徒の人は「家族グループ」や「学校グループ」や「地域グループ」さらには「国民グループ」や「人間グループ」にまで所属している。

いじめられる子供がクラスの中でどんなに地位が低かろうと、誰かにとってはとても大事な子供だし、
法律に反するようないじめを行った者には社会の刑法は適用されるはずなんです。(現状ではほぼ適用されることはありませんけどね)
いじめが世間に公開されれば大問題になるけど、ほとんどのいじめは公開されてないからたまたま大問題にはなっていない。
いじめを行う生徒や教師は「ここではクラスのルールがすべてであり、治外法権である」と思っています
そこでは一般的な社会の刑法や人権などは存在しないことになっているんです。
「教育的措置」っていう看板が盾になってしまってるんだと思いますけどね。


「そのときに存在する身近な人々の存在」しか信じていない。
いじめを行うのは視野が狭いんです。
しかも政府とか国家という概念を信じてない。
地域社会や法律は自分たちとはまったく無関係なものだと思っている。

ほぼ北斗の拳の世界そのままです。力がすべてを支配する世界。

なぜ「クラス以外の世界は存在しない」と思ってしまえるのだろうか?
なぜ小さな世界観に閉じこもってしまえるのかな?

毎日同じ学校にいって同じ人々と顔をあわせていると、それが世界の全てであるかのように感じられてくる。それ以外の世界のことを知らないし、他の世界も今いる場所と同じようであると思っている。

そういう価値観になってしまっているのは親の人にも責任があって、
お父さんやお母さんに「どんなに苦しかろうが選択の余地なんてない。必ず毎日学校に行け」と言われると、
生徒の人は「出口なんてない」と思ってしまう。
絶望しかなくなっちゃうんです。

中途採用の教師なんてほとんどいないでしょう。
教師は何十年も同じ環境にいて、他の世界のことをよくわかっていない。

そんな特殊な場所に何年もいたら誰だって影響受けますよ。

誰もが精神的な牢屋に囚われている。と言ってもいいです。

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『井沢式「日本史入門」講座』という本の中で「みんなで話し合ったことが正しい」という概念が日本の伝統的な宗教として存在している、という記述がある。
「みんなで話し合えば必ず正しい結論になる」というのは根拠がなく、間違っていると本文の中で否定されている。
いじめ問題も「集団のほうが個人よりも正しい」という理念に基づいて行われているように感じる。
「小さな世界で収束することがすべてである」という価値観の延長上にいじめが存在する。

実際には「小さな世界で収束する」わけではなく、自殺などのいじめに関連した事件でもあればマスコミに大きく取り上げられる。
「自分たちだけの小さな問題」では済まなくなる。
そのときに初めて気がつくが、実はもともと「閉じた世界の問題」ではなかった。
今この瞬間にも広い世界と向き合っている、という意識が必要なのだと思う。

授業では世界のことを教えているというのに、学校を牢獄として感じているので
実際にはクラス以外の世界については実感がなにもない。

いじめがあるということは国や社会や世界についてリアリティを感じさせることに失敗している。
いじめが存在するってことそのものが教育の敗北を意味する。
だって表面上はどんなことを言っても、(意図的ではないとはいえ)建前とはぜんぜん違う教育をしちゃってるんだから。

自分の学生時代を考えてみるとよくわかるんですけど、
多くの生徒は「自分が教育を受けていることの意味」をまったく認識していないです。
「真面目に勉強をやっている生徒」ってのは、「カッコ悪い」ってことにされてしまう。

クラスという狭い世界のことしか考えることができないのだからあたりまえです。
社会や自分の人生の中での教育の位置づけを考えることなどできるはずがない。
多くの生徒は「自発的に教育を受ける」という心理状況ではなくなってしまっている。

自由選択があって初めて「牢獄という意識」から抜け出すことができるのではないか、という気がします。
教育を受けさせることそのものは選択の余地がないとしても、
たとえば学校は選べるようになっているとかね。

あるいは、休日は自由に設定できたほうがいい。
管理するのが難しくはなるだろうが、画一的な行動をさせないほうがいじめは減少すると思われる。
教師本人が学校世界からもっと離れた世界観を持つべきです。
もっといろいろな社会のことを知って、いろいろな経験を積んだほうがいいし、
そういう人を教師として迎えたほうがいいと思うんです。
純粋培養ってのはよくないよ。
学校→教師ってなったらぜんぜん社会のことを知らないままに教師になれてしまう。
どんどん世界が狭くなっちゃう。
社会の上層から下層までのさまざまな人が教師であったほうがいい。
悲惨な労働をやってる人の話も参考になるだろうし、ものすごい先端技術を開発している人の話だっていいでしょう。
自分が生徒ならいろんな人の話が聞きたいかな。
いろんな意味でバラエティが必要だと思うな。

井沢式「日本史入門」講座〈1〉和とケガレの巻

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