学校の虚しさ

自分はある地点から、人生について半分くらいドロップアウトしていると思う。
レールに沿った生き方をしようとはしていない。

大学に進学するときには完全にドロップアウトする方向に舵を切っていた。
つまりそれ以前にドロップアウトの要因がある。

高校生くらいのときに。

「学校や勉強が虚しいもの」という直感。
この直感が自分を導いている。

いったいこの「虚しさ」はどこから来るのだろうか?
なぜ自分以外の多くの人々はこの「虚しさ」に捕われずにいられるのか?

本当に学習は虚しいものだったか?

まずは何十年も経った現時点で、本当に学習が虚しいかどうかを考えみるのだが、
やはり学習内容の半分以上は虚しいものだったと思う。
学校で学んだ数学を生かせている人はほんの一握りだし、英語についても同様だ。
歴史の年号のほとんどは忘れてしまったが、それで困ることはない。
学校を卒業してから一番役に立ったのは趣味で数年間やっていたプログラムだった。

文章を読んだり書いたりすることは仕事でも必要だったし、
趣味で歴史の本を読むときには歴史の常識は役に立つ。
同じく趣味で遺伝子の本を読むときには、遺伝子の授業は役に立っていると言えるかもしれない。
(遺伝子に関しては学校で習ったことはすでに古くなっていることが多いが)
自分の場合は、卒業後は趣味の領域と実務の領域が逆転している。

結局のところ、学校で習ったことのほとんどを生きるためには使っていない
必要な知識を得たのは間違いないところもあるのだが、
あまりにも「結局はいらなかった」という知識も一緒に詰め込んでしまっている。
非常に効率の悪い時間を過ごしたのではないかと思う。
リファクタリングが必要なのではないか。

知識を細かく区分して、「これは何%の人が実際に卒業後に利用した」というものについて統計を取得して、
10%以下の人々しか利用しなかった知識については義務教育から削除していい。多くの人が利用したものについては強化する。
リファクタリングを行うと、ずいぶん義務教育の内容は変化する。
現代社会の内容が大きく強化される結果になるのは間違いない。
心理学や食生活、病気、法律、企業経済のメカニズム、株式や投資、保険についての知識が大幅に強化される。逆に数学や英語の時間は大幅に削減されるだろう。美術や体育の存続も危うい。

現時点の教育には無駄が多すぎるので、せっかくの学習意欲が空回りする内容となっている。
それがどのように現実と関連するのかが見えてこない。

自分は家庭科などの授業についても虚しさを感じていたのだが、
これはそもそも家庭科という科目が受験科目として採用されていないという点にも原因があるだろう。
授業時間が少なすぎて、役に立つ授業になっていなかった。
料理の授業を現実に役立てるためには、毎日自分で料理してみる必要がある。自炊環境が必要だ。
自分で作った料理を食べて生活しないことには料理のテクニックを学ぶ目的がわからない。

「学習が虚しい」と感じていた自分の感覚は正しいものだった。
今、もしも当時の学校に入学することができたとしても、同じように虚しいと感じると思う。

なぜ多くの人々が虚しさを感じていないように見えたのか

多くの人々が虚しさに捕われていないように見えるのにはいくつかの可能性が考えられる。

  1. 何らかの目的を持った人にとっては「虚しいもの」ではない
  2. 虚しいことを知っているがシステムがそうなっているから従順に従う
  3. 学校が世界のすべてなので虚しいはずがない
1、何らかの目的を持った人にとっては「虚しいもの」ではない

将来なりたいものがある程度決まっていて、それに向かって努力している人にとっては
その過程としてのハードルとして学習を捉えることができるだろう。
この人達は割り切った価値観を持っている。
「虚しいもの」であったとしても、目的のためにそれを我慢する。
だが、義務教育の時点で将来の自分の像が明確に結べている人はそれほど多くない。
実家の農業を継ぐことが決まっている人などは、将来の自分像が明確だが、
そういう人には学習についてのインセンティブがそれほど大きくない。
自分の友達を考えてみても、この層が存在したとしてもごく一部だったと思う。

2、虚しいことを知っているがシステムがそうなっているから従順に従う

長いものにはまかれろ、というタイプ。
まだ成人していない未熟な存在であるので、システムのあり方がそうであるならば、
その方式に従うしかないという諦めがある。
従順なタイプであると言っていい。
自律性がないのだが、自律性があったら無駄な授業にはイライラするだけであり、
学校世界では自律性は嫌われる性向のように思われる。

もしくは自分の限界を知っている冷静な人間だ。
自分は傲慢で、そこまで冷静ではなかった。

3、学校が世界のすべてなので虚しいはずがない

たぶんこの層が大部分だったのではないか。
高校生の時点で言うと、生まれてから学校に入学するまでの時間よりも学校にいた時間のほうが長い。
世界のすべてが学校になってしまってもおかしくない。

自分の場合は、学校で教えている先生のほとんどは学校以外の社会を知らない人たちばかりだった。
たぶん、今でも田舎の学校はどこでもそうだろう。大学でさえも教授は学校世界の人間だったと思う。
学校社会による学校社会のための教育になってしまっていた。
誰もその教育の目的とするものを知らず、教育自体が学校の存在目的になっていた。

狭い世界に閉じこもっているから、学校世界以外で何が起こっているのかがわかっていない。

高校の卒業生の半分くらいは地元に残らず、大都市圏に就職する。
そうであるならば、学校世界での生き残り方にいかに習熟したところで、企業世界での生活には役に立たない。
井の中の蛙であることに特化させる」のは誤り。
わざわざスタートラインを後ろに下げているようなもの。

だが、困ったことに教師の多くは学校世界しか知らない。
人生のすべてを学校世界で過ごしてきたため、世界の半分以上を占める企業世界がどのように運営されているかわからない。知らなければ教えようがない

「学校が世界のすべて」と考えていた人たちは社会に出たときに裏切りを感じたはずだと思うのだが、どうだろうか?

「能力はなく怠惰だが自律的」な人間の陥る罠

高校に到るまでに自律の重要性が叩き込まれていた。
それは自分がいじめを受けていたことによる。
学校生活のあらゆる場面で、こづかれ、笑われ、道化にされていた。
教科書や靴はなくなり、机に落書きされる。
脈絡なく罵詈雑言を吐かれるスクールカーストの底辺にいた。
学校はそういう生徒を救うことはできない。
肉体や精神への暴力のペナルティが存在しない無法地帯だから。
目に見える怪我や自殺や殺人が発生するまでは具体的なアクションが取られない。

這い上がるにはやり返すしかない。
殴られたら必ず殴り返す。多対一の場面を避け、一対一でやり返す。
痛みは雄弁で、必ず反撃があることを学習したら次は殴ってこなくなる。

「組織は当てにならない」「自分のことは自分で守れ」
「親しい友達も信用できない」
そういうことが身にしみていたために、
学校組織の提供する未来というものを信じていなかった。

社会は学校組織のような恐ろしい場所ではなかった。
意味もなく殴られるようなことはまずない。
自分の持っているものが取られることはない。
罵詈雑言を吐かれることもない。

学校社会というものがあまりにもひどい場所だったので、社会全体がひどい場所なのだと思っていた
戦争を生き延びた人のように、強烈な体験をするとその時の知識で世界全体を計ろうとする

これは明確に間違いなのだ。
どんなに理不尽に見えようとも学校の正しい使い方は目的に至るための道具であって、
自分を閉じ込めておくための檻ではない。

世界をどのように生き延びるのか、生き延びるために自分にステータスをつけ、
スキルを伸ばすにはどうするか、そういう視点で学校を使うべきだ。
学校がどんなにくだらなかろうとも教師の視野が狭くともね。
アホシステムでもそれがシステムである以上は現存する方式を使うべき
圧倒的に優れた能力がない以上はそれが適応的だ。

そうしない場合は自滅覚悟で茨の道を歩くか、
今の自分のように流れてゆくしかない。

まとめ

いじめ→世界への不信→自律性→とりあえず生きていければいいという適当

だいたいこの4段階で繋がっている。
(自分の場合、プログラミングもそうなんだけど学校の授業で教わっていないことを学校でずいぶん学んだような気がするが、もちろんそれは学校の教育機関としての優秀さを意味しない)

現時点でも社会とうまくコミット出来ていない。
何度か職を変わっており、現時点では無職だ。

世間の多くの人々はこういう過程を経ていないので、認識が噛み合わない。
「組織が信頼のおけないものだ」という認識もなかなか共有することが難しい。

だが、おかげでストレスを抱え込んで死ぬようなことはたぶんない。
自分が死ぬほどの価値が組織にないことがわかっているから。

うまく生き延びているほうだ、と思っておくしかない。

後で思ったけど

不完全な社会で生きていくということは、自然体で生き延びることができるはずがないということだ。
何らかの社会の要求する能力に特化して、それを研ぎ澄ましていくべきなのだろう。