幽霊を見ることを心配するべきか

死後の世界はない。

死んで地獄に行ったりはしない。
人間も他の生物と同じように、死んだら単に物資として分解するだけだ。

なぜ、死んだ後の世界が存在するかのように感じられてしまうのだろうか。
それは、人間はあくまでも「生きていること」しかできないからだ。
人間自身が「死んでいる」状態であることはできない。
意識がある状態というのは常に「生きている」状態だ。

であるので、本来「生きている」という状態ではない場合については
適用できない法則についても無理やりに適用しようとしてしまうのだ。
まあ精神的な要因についてはこれで説明がつくのだが、

もしもテレビで幽霊や心霊現象の話を聞いて不安になったら。
確かにテレビが言っているならそれは真実かもしれない。
そういう現象を見た人が少なくとも一人はいたのかも。

しかしそれを無視していい理由がある。
それは交通事故が存在するからだ。

年間、数万件も交通事故が発生している。
もちろん死亡することもある。

しかし我々は交通事故が怖いからと言って、外を歩くのをやめたりはしない。
リスクが極端に低い場合はそのリスクは「存在しないのと一緒」という扱いを日常生活では行っているはずだ。

居眠り運転をするトラックがあなたが渡る交差点につっこんでくるかもしれない。

だが、毎日通る道で交通事故が起こることをいちいち心配したりはしない。

なぜか。

極端に発生する確率の低いものは無視するのだ。
それが不正確であいまいな人間の正しいあり方だから。

極端に発生する確率の低いものに気をつけていたら生活することができない。
つまり、人間はあいまいであることが求められているし、それが自然なのだ。

ところが、幽霊を見た人や地獄を見る人は年間に数万人もいたりはしない。
つまり交通事故の発生件数よりもよほど低い発生件数しかない。

「あるかないかわからない」ものを「ある」と考えるような無駄はそもそも生活者には許されていない。
現実に生活していく人間にとっては「あいまいなもの」は「ない」ものでなくてはならない。

交通事故以上に発生確率が低いものについては心配しなくていい。
もしも自分が来世や幽霊や霊魂を心配しているようなら、それは「暇すぎる」ということなのかもしれない。

実務的な生存マシーンとしての人間のあり方についてもっと追求する余地がある。

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