先入観からの逃れ方

人生というのは先入観に満ちている。別にそれは悪いことではなくて、先入観がないと毎日の物事をいちいち考えるので行動の効率は一気に下がってしまう。速度が重要視される場合には先入観はとても重要で必要だ。

ただ困ったことにそういった「思い込み」が長い間更新されない場合がある。特に子供のときに教えられたことは強烈で、自分でも認識しないままに何十年もの間、同じことを信じ続ける結果になっている。実はこれは非常に恐ろしいことだ。
韓国や中国で教えられている「日本は悪い国」といった教育の成果はこの先何十年も残り続ける。「女性は結婚して主婦になるべき」という教育を受けた女の子は、特に主婦になる必然性がないのにも関わらず、大人になって主婦になろうとしたりする。「セックスは罪悪である」という子供向けの教育内容をいつまでも引きずり続けるケースもある。「とにかく競争で上位に立つこと」とか「誰よりも早く正しい答えを出すこと」という教育は、実際は違うのに現実世界がゲーム的に構成されているかような幻想を与え続けている。

知識は更新されなくてはならない。自分の信じていることが果たして正しいことなのかどうかをときどき確認する必要がある。過去に正しいと思っていたことも、今となっては正しくないかもしれないのだ。どうやったら先入観から逃れることができるだろうか。

もっとも確実な方法は、「0から考える」ことだ。なにもないところから考えれば先入観の入る余地はない。あるいはそれに近い方法として基礎的な事実を積み重ねていくこともできる。問題に対して広範で多面的なアプローチをするのもいい。一種の専門家になろうとすること。「日本は悪い国だ」と教えられても、歴史をはじめから順に追っていけば「絶対的に悪い国や絶対的にいい国というものはそもそも存在しない」という結論にたどり着くだろう。主婦や独身の人の実態や女性に対する政治的なコントロールの歴史を調べていけば無理に主婦になる必要はないことがわかるし、性の実態や生命の成り立ち、歴史における性の政治的な位置づけを調べればセックスは罪悪じゃないことがわかる。現実社会の成り立ちや仕組みを調べていけば、それが「テストで計れるような洗練されたシステムではない。混沌としていて意思や行動力、プロセスを自分で組み立てる力が重要だ」ということがわかる。こういう検証作業はものすごく回りくどい方法だ。時間がかかる。でもたぶんそれをちゃんとやらないと前に進めない。

思っていることをとにかく全部ノートに書いてみると整理できることがある。知識を更新することは過去の自分を否定することだ。「間違っていた」ということを認めなくてはならない。これは苦しみを伴う作業だ。だが苦しみを乗り越えないと知識を更新することはできない。痛みから逃れようとすればするほど、現状を改善できなくなっていく。

どこかで痛みを克服する必要がある。自分が傷ついたり消耗したりすることをスポーツなどで反復すれば、痛みにはだんだん耐えやすくなる。それは一種のマゾ化であるかもしれない。「過去の自分を否定すること」を痛みではないと認識しなおす。実際のところ「過去の否定への恐怖」と未来を引き換えにすることは現実的ではなく、感傷的に過ぎる態度であるように思われる。記憶の中に生きるのではなく未来に向かって生きるべきだ。

どうしても苦しいようであれば部分的に消化するという方法もある。少しずつ過去のことを思い出して一つ一つの出来事や教育にどういう意味があるのか検証する、ということもできる。

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まとめ:「日常生活を効率よく進行させる」という視点だけでは、人生を生きる抜くことはたぶんできない。先入観の更新なしには薄っぺらく危険の多い人生になってしまう。誰でも自分の持っているルールが正しいものであるかどうかをときどき検証する必要が発生するはずだ。過去の自分を否定する苦しみから逃れずに、まっすぐに向き合う勇気が必要だ。痛みを恐れないこと。自分が消耗していないとき、体力のあるときに行うべきかもしれない。