学科のペーパーテストが人生に対してどのように無効か

学校教育で根本的にまずいと思うのは、「ペーパーテストで個人の能力が計ることができる」ということにしてしまっている点だ。現実世界ではもっと他に様々な能力が要求される。人間関係を円滑に保つ技術であったり、目標を実行可能な作業単位に分割することであったり、そもそも計画を実行に移すことの出来るモチベーションであったりする。現実世界はもう少し多彩だし、複数の能力が要求される場所だ。

目標が与えられていてしかも実行方法までが指定されているのは、非常に単純な労働者だけだ。そして単純な労働でありさえすればするほど、労働の質そのものよりもそれを継続していく才能のほうが重要だ。忍耐力やまわりの人々と円滑に人間関係を築くことのできる能力など。そんな能力を学科のペーパーテストで計ることができるはずがない。職によってはまったくペーパーテストが有効でないケースもある。対人的な技能が要求される職ではペーパーテストの点数はほぼ関係ないだろう。
職業だけではない。人生というのは多くが日常生活で構成されている。日常生活を生き抜くためにはペーパーテストの点数は関係がない。家族関係に問題があったり、暴力を振るったり、ギャンブルにはまったり、性欲のコントロールが下手だったり、犯罪を犯したり、宗教に勧誘されるようでは幸福な人生を送るのは難しい。いくらペーパーテストの点数が高くてもそういった罠にはまらないという保証はどこにもないのだ。「テストでわかるのはごく一面的な能力である」ということを教育者は明言しなくてはならない。

でないと、「テストでいい点数をとりさえすれば成功できる」とか「テストの点数が世界のすべてなのだ」と勘違いする子供が発生することになる。というか現に発生しているし、実際に我々はそういう教育の影響を受けてしまっていると思う。直線的で一面的な判断をしそうになったら、それが「テストで高い点数をとればすべてがオーケー」という教育の成果できないかを確認する必要がある。そのくらいの影響を多くの人に与えてしまっている。

もちろん生徒に本当のことを言ってしまうと現実のテストの点数には悪い影響を与えるかもしれないのだが。現状では嘘を教えることになってしまっている。あたかも教育自体が「テストの点数がよければ幸福な人生が保証されますよ」と言っているようなものだ。嘘を教えるのはよくない。

上記で指摘したことへの対策をきちんととって、それを学んだことを評価できる方式を作り出すべきだ。それはたとえば下記のような授業かもしれない。

・暴力の持つ問題点をきちんと認識させる教育を行う。過去にどのような暴力が存在し、現実の社会にどのような影響を与えてきたかを調べる。DVの実態を調査し、できれば関係者に会って話を聞く。

・宗教の問題点や発生原因、成立について。過去に発生した宗教にどういった問題があり、どのような手口で会員を獲得するかを調査する。仮の宗教組織を作り、勧誘の手口を実際に体験してみる。

・ギャンブルにはまって身を持ち崩すということの事例研究とシミュレーションをする。なぜ人はギャンブルにはまってしまうのかの研究を行う。仮のギャンブルを行ってみる。

・犯罪者の心理について研究する。どんな犯罪者がどのような心理状態で持って犯罪に挑むようになったのかを調べる。なるべく実際に行われた犯罪に近い行動をしてみる(犯罪にならない程度に)。法律のない世界や、犯罪の多い世界がどのようであるかを調べ、実際にシミュレーションを行う。

・人間関係を円滑に行うためのトレーニングを行う。美辞麗句を言い慣れるようにする。思ってもいないことをさらっと言えるように練習する。人を説得する方法を学ぶ。仮の営業部隊と消費者を作り、より多くの人に売り込むことができるかを競争する。

・性欲の問題点を事例を使って研究する。浮気が離婚問題に発展するのはなぜなのかを考える。自分の性欲をコントロールする方法について学びその実践を行う。性欲の存在意義や性欲が社会に与えている影響について考察する。

・自分の考えている目標を、実行可能な内容にブレイクダウンする方法を研究する。実際になにか目標を立てて、それを実行してみる。これを評価するときには成果ではなく、なるべく時間がかかりプロセスが長いものであるほうが優秀であるとみなされる。

心理的なダメージを受けることについて研究する。絶望的な状況に陥った人がなにを考えているのか。うつ病とはなにか。どのような契機でうつ病になるのか。どういった方法で絶望から逃れることができるのかを考察する。実際に自分が絶望的な状況に陥ってみる。

このあたりをきちんと学ぶことができれば、「テストの点数がすべてである」と教育するよりも人生を生きる上での問題や危険をずいぶん少なくすることでできるのではないだろうかと思う。