直感で憲法改正を批判してみる

そんなに難しいことじゃない。そう例えば「少しでも領土を侵されたときには戦力で攻撃するべきか」こんな投票をするだけでもいいんです。これ、適切な投票対象じゃないです。もしも「攻撃すべき」ってのが国民投票で決まっちゃうと、柔軟な対応ができなくなってしまう。現在であれば「とりあえず譲歩する」って形になっている竹島ですけど、簡単に竹島を巡って戦争が始まっちゃうんですよ。こっちは自分の領土を守ってるだけだから、あくまでも自衛のための戦いって言い切れちゃう。(まあ戦争を始めたほうがいいって人もいるとは思いますが)

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つまり、「なにについて投票するか」ってことがものすごく重要なんです。投票で決めるべきかどうかを事前に誰かが決めてしまっている。投票する人じゃなくて投票対象を決めた人に決定権があるんです。投票対象を決めた時点でどうなるかは粗方決まってしまっているんです。本来の憲法の精神ではきっと「政府の暴走を防ぐため」でしょうけど、現状ではその意図を生かすことはできないでしょう。むしろ別な目的に使われる可能性がある。

投票ってのは「責任を逃れる」ことができてしまう。重大な決定をすることを見た目としては避けることができる。「おまえがあの時決めたからこうなった」って誰かに言われることがない。誰も失敗の責任を取らなくていい。国民投票ってのは「政治家が自分には責任がないってことを言い張るための装置」になります。目的達成のためのテクニックになってしまう可能性がある。

今まで憲法改正できなかったってことは「重大な決定を行う力を持った人が誰もいなかった」ってことなんです。長期に渡って政権を執っていた自民党でさえも今まで憲法改正できなかったんですよ。つまりこの国では憲法みたいな理念に関しては誰も強力なリーダーシップを持ってない。それは共通した意思の欠落ってことでもあるし、「誰かを説得する技術を持っていない」ってことでもある。なにか重大な問題が発生してもみんなを論理的に説得する技術を持っている人が誰もいない。力関係や慣例でしか物事が動いていかないんです。説得力を持った論理を展開できる人が誰もいないにも関わらず「多数決で決めよう」って方向に話が進んでいる。

明確な論理のない多数決ってのがどうなるかっていうと、それは責任の擦り付け合いにしかならないんです。「誰一人として責任を取らない」ってことを実現するための装置としてしか機能しない。誰一人として責任を取らない無責任な社会ってのが実現できちゃう。これは実は恐ろしいことです。船の行く先を見えていない人が進路を「なんとなく」決定することが簡単にできてしまう。
確かに憲法には「改正には国民投票が必要」って書いてありますが、今まで投票に関する法律が制定されなかったのはなぜですか?Iridiumが勝手に想像するには、こういう状況だからこそ今まで誰も憲法改正をしたくても*できなかった*んですよ。憲法改正の手続きが正しく運用されていく確信が誰も持てなかったので怖くて改正法案を成立させられなかった。現在でもこの問題が解決されたわけでは決してない。あいかわらず理念は不足していて、説得力のある議論を展開できる人は政治家には誰もいない。敗戦からの時間の経過とともに「致命的な失敗への恐れ」が薄れてきただけで、実際にはまだ政府組織が自分たちを信頼できないという問題は残っている。

もちろん、大多数の国民が情報収集能力があり、判断力があり、自立した人間で、政治的な問題をじっくり考える時間があるならば、国民投票の多くの問題は回避できるでしょう。でも実際にはぜんぜんそんなことない。多くの人は情報収集能力がありません。判断力があるとは限らないし、自立しているかどうかは人それぞれです。政治的な問題をじっくり考える暇なんてほとんどないはずです。

「多くの人の意見を集めたら正しい結果になる」というのは幻想です。今その幻想を試す方向に話が進んでいる。もしもIridiumが間違っていてその幻想が正しければ何の問題もありません。でも、それがもしも正しくなかったときには、国家自身がその間違いを償うことになる。国家のミスですから半端な規模ではありません。場合によっては多くの人が死ぬことになるでしょう。

本当に本気で国民投票で国家の方針を決めるつもりがあるのであれば、今すぐ多くの人の見識を高めないと駄目です。多くの人に最大限の情報を与えて、正しい判断ができる状態にしないといけない。バイアスを減らして正しい判断ができる状態に持っていく必要がある。年齢、社会階層、地域を横断した自由な議論ができる土壌がなくてはならない。
そんなことが果たしてできるのだろうか?Iridiumは「多くの人」を信じていない。人間というのは感情に流されやすく、時に自分のコントロールすらできない生き物です。多数の人が常に理性的な判断ができるとは思えないんです。大きな資本が本気で操作しようと思ったら操作できてしまうかもしれない程度のものです。

まとめ:

憲法になぜ「改正に国民投票が必要」って書いてあるかというと、政府の暴走を防ぐためです。国民自身に決定権を与えるため。でもそういう目論見とは別に「責任転嫁装置」として使われてしまう可能性があり、多くの一般的な人は政治に疎く時流に流されやすいため憲法のような高度に理念的なものを投票対象とした場合、選択の信頼性に疑問がある。

もっと大きな問題は議会制民主主義ってものを政治家自身があんまり信頼してこなかったってこと。信頼できるような仕組み、文化を作ることができていない。議会でとことんまで議論して論破するって方式になってない。今まで憲法を改正できなかったのはなぜなのかをよく考えてみたほうがいい。政府組織が理屈で説得できないお化けみたいな不安定な存在だからなんです。便宜的な存在であり、理念を感じないってのが(政治家自身を含めた多くの人の)信頼感を損ねてきた。言論で制御可能であり、自分がした約束に誠実で、モンスターになることは絶対にないってことを示す必要があるんじゃないか。理念を認めるってのは「集団で決めたことはなんでも正しい」という集団信仰「和」をもっとも大切にする日本で集団以外の絶対的なものを認めることになる。いわば伝統の否定であり、守ってきたものを壊すことになる。でもそれをやらないといけない。風土にそぐわないとは思うんだけど「理念」「論理的な正しさ」とかを尊重して認めていかないと憲法改正ってのはうまくいかない。憲法ってのは言葉としての絶対性が要求されるものだから。