「運命の人」なんていない

「いま、会いに行きます」という映画を観ました。
この映画は「死んだはずの妻が雨の季節に戻ってくる」というファンタジー系の純愛映画です。中村獅童竹内結子が出ています。
(自分はリアルでの彼らの関係を想像してしまって楽しめなかったのですが=別の意味で楽しめた)
Iridium的にはリアル世界から離れられないので、生々しすぎてイマイチな映画ですが、大方の評判はかなりいいみたいですね。ふーん。
で、気になることがあります。
その中で主人公とその奥さんの関係について「たった一人の運命の人なんですね」といった台詞が出てくるんです。

えーとですね…。
よくそういう台詞がフィクションでは言われることがあるのですが、はっきりいいましょう。
それは幻想なんです。「運命の人」なんていない。そんな人は存在しないんです。
もう一回いいましょう。「運命の人」なんて存在しないんです。フィクションの中だけの存在なんですよ。

この映画では、高校生活で出会うことになっている。
学校の同級生を好きになる確率はどのくらいだと思いますか?
50人くらいのクラスとして、異性は25人。
多くの人が恋愛に興味を持ち始めるのは中学生くらいからでしょう。
中学生も恋愛の対象とします。
中学校3年、高校3年で6×25=150人くらいの異性と出会うわけです。
つまり150パターンの人の中から一人の人を選ぶんです。
たった150人ですよ?
そんなものが「運命」であるはずがない。

それは運命などではなく「たまたま自分と相手の許容範囲内にお互いがいた」ということでしかないんです。
ここを勘違いしてはいけない。

「偶然という名の運命が恋人同士をひきつけ」たりはしない。
現実世界の恋人というのはもっと妥協と醜さに満ちている。
そしてそういった妥協と醜さこそがリアリティで、実はそこにも別の美しさがある。

「運命の人という思想」に囚われてしまうと、醜いものを認めなくなる。
妥協が許せなくなってしまう。

恋人同士であることに思想性なんか必要じゃないんです。
お互いの幻想を満たすことなんてそんなに重要じゃない。
幻想なんていずれ消費されてしまうお菓子のようなものでしかないのだから。
三日で飽きるようなものです。

恋人同士の実質は助け合いとか親切さ、といったようなものです。
「親切さ」ならほとんど誰にでも与えることができる。
そして恋人というのはそのくらいの関係なんです。
「唯一無二の」とかっていう設定はハードルが高すぎる。
多くの人にはクリアできない目標なんです。
そんな目標を設定されたら、恋人なんてほぼ永遠にできるはずがない。
「恋人ができない」と悩んでいる人の多くはそれが原因なんじゃないかと思う。
相手を人間としてではなく、「運命の人かどうか」で判定している。
そんな判定をクリアできる人が存在するはずがない。

あまりにも世の中に「恋人とは唯一無二のパートナーの出会いである」といった幻想がまかり通っている。
影響されやすい人は簡単に毒されてしまう。
それ以外の出会いを否定しているように感じます。
多くのフィクションが害毒を垂れ流しているように見えるので、ブログを書く人の義務として批判しておきます。
同じように思う人はブログに書いてください。
多くの人が批判しないといけないくらいに、「運命の人」幻想は多くの人に広まってしまっているから。
そして自然な恋愛関係を阻害してしまっているんです。
現実世界というのはそんな単一の価値観で割り切れるようなものではありません。
一つ一つのフィクションはそんなつもりがなくても、多くのフィクションが同じことを語ることで一つの思想で世界を規定しようとしてしまっている。
この罪は重いと思いますね。

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