世の中の人々は打算的であるだけ…ではない

えー、世の中には様々な幻想があるんですが、
プラス方向の幻想だけじゃなくマイナス方向の幻想というものも存在します。

よくある幻想の一つとして「世の中の人々は常に打算的で自分の利益しか考えていない」というものもあります。
これは不正確な思い込みで、実際にはそんなに打算的であるわけではない。

例えばですね。コンビニで買い物しますよね?
コンビニの店員の人は「お金を貰うためだけに働いている」と思いますか?
彼らは「お金さえ貰えればそれでいい」と思っているのでしょうか?
お金さえ貰えればどんな仕事でもいいと思っている?

そんなことはありません。
「どんな仕事でもいい」と思っている人は世の中にほどんどいないんです。
みんな多かれ少なかれ「こんな仕事がしたい」と思ってその仕事を選んでいる。
コンビニ店員の仕事を選んだ人は、ものすごく理知的であったりはしないかもしれませんが、
長時間にわたって立っていることができ、レジ入力や、様々なコンビニでのサービスを覚えて対応することのできる人です。

それと、人間が嫌いならコンビニみたいな接客業はできないです。
そういう人はコンビニは苦痛にしかならないので、技術職を選ぶか工場で働くでしょう。
コンビニでは人間と接するのが好きな人が働いている確率が高いのです。

もっとすごいことがあります。
コンビニで働いている人は人間と接するのが好き(もしくは苦痛ではない)だけではありません。
外見によって客を差別する人は小売業にはもちろん向いてませんし、マニュアルには客を差別してよいとは書いていない。
特定の見た目の人を嫌ったり、逃げることはコンビニの店員には許されていない。
相手がやくざであっても浮浪者であっても外国人であっても同じように接しなくてはならないんです。

コンビニで接客するというのは単純ではありません。
あらゆる人に平等に接するということです。
もう一回書きます。あ ら ゆ る 人 に 平 等 に 接 す る ということです。
究極的には見知らぬ人への愛であり、最終的には人類愛です。
ちょっと大袈裟ですが、間違いありません。

コンビニでなにかを購入するときには、ほんのちょっとだけですが確実に人類愛を受け取っているんです。

もちろんこれはコンビニの商業としての洗練度(差別しないほうが商業的に有利であること)、
セキュリティシステムと日本の治安のよさに裏打ちされたものではありますが、
「誰であろうと絶対に差別されない」というのはすごいことです。
コンビニで働いている人の中には多かれ少なかれマザーテレサみたいな心があるんですよ。
Iridiumは見たことのない人間が怖いのでコンビニで働くことはできないから、これはものすごいことだと思います。

そういう博愛心みたいなものってのは打算的であるだけでは獲得することはできない。
24時間の博愛ですよ?そんなにも長い間、上辺だけ糊塗するってわけにはいかない。
どこかに本物の博愛がなければ長期間の試練に耐えることは(たぶん)できない。

打算ってのは自分の利益のことしか考えていない、あくまでもナルシスティックな起源を持つ思考法です。
ところが博愛はぜんぜんナルシスティックではない。
この二つの思考法はまったく異なったベクトルを持っている。
自分個人のことだけを考えているならその境地に達することはできないんです。

打算だけで接客業ができるはずがない。
そこにはどんな形であれ献身とか人類愛が必ずある。

つまり世の中の人々の思考の中にあるのは打算だけではないんですよ。
もちろんコンビニの店員の人も給料は貰ってますけど、それだけが目的であるわけではない。
今僕たちが住んでいる社会は打算だけではなく、善意によっても支えられているんです。