競争的なしくみがすべて正しいってわけじゃないよ

サカつくオンラインをやっていたら、フランスのチャットで
なぜかしつこく「ニートについてどう思いますか?」って話題を振ってくる人がいたので乗ってみた。
話しているうちに

積極的に対策を取る派:自分
事情を理解する(静観?)派:Aさん
無条件に働かせるべき:Bさん

という構成になった。
で、このBさんなんだけど、どうもこの人は競争的なしくみが最上であると思っているらしい。
「自然界では弱肉強食だから、人間社会も同じように弱肉強食であるべきだ」
というのが持論なんです。

ええとね。

まずは「自然界が常に弱肉強食である」というのは思い込みです。
共生関係というのは自然界の至るところで成立している。
森と動物の関係もそうだし、チンパンジーんの集団だって多くの場面では共生関係にあるんです。
微生物や細菌同士が共生している例は多いし、葉緑体ミトコンドリアはそもそも別な生物が他の細胞の中に入り込んできたものです。
というか、多細胞生物は一つの細胞が他の細胞と共生関係にあるとも言えるんです。
自然界が単純な競争原理によって支配されているのであれば、そもそも多細胞生物が存在できないんですよ。
もしもこの瞬間に自然界に完全な弱肉強食を持ち込んだら、
すべての細胞が一細胞の最大利益を目指して増殖を繰り返すことになって(ガン細胞化)、
大きな生物としては機能できなくなり、細胞としても遅かれ早かれ死んでしまう。
多細胞生物の一細胞レベルから見ると生き物の基本は共生関係なんです。
確かに自然界には弱肉強食な側面もあるけど、それは部分的な観察にすぎない。
自然界は「競争絶対」の旗印にはなりません。

で、

人間界に関して言うと、第二次世界大戦くらいまでは「競争こそが最高」って思ってる人もたぶん多かったんです。
でもね、世界大戦では人が死にすぎたし、本当に競争が最高なんだったら60年代とか70年代に地球はなくなってるはずなんです。
なにしろ僕たちは地球を何回でも壊せるだけの武器を持っているんですから。

つまりですね、Bさんの言う「母なる競争原理」は破綻しちゃってるのです。
僕たちはもうゲーマーじゃないんですよ。
ゲーマーとしては力を持ちすぎているんです。
好きなように競争していればそれでなんとかなる、って時代はとっくの昔に終わってる。
(いろいろな動物を絶滅させている段階から終わっていた、とも言えるのですが)
環境問題を考えても国や企業が「競争に勝つ」ことだけを目的にしていたら、どんどん環境を破壊するだけになるのはわかるでしょう。

経済系の世界もかなり進歩しているけど、まだ競争環境としてはぜんぜんです。
というのは経済的に弱い国がどんどん搾取されてしまうから。
国際的な穀物相場が上昇すると、通貨競争力のない国の人たちはどんどん飢餓で死んでいく。
そんなしくみが完全であるはずがない。

そもそも経済的な競争環境をデザインするのは我々人間です。
ルールを決めるのも人間です。自然に発生したわけじゃない。
もちろん恣意的なルールによるゲームもあるし、特定のプレイヤーが有利なゲームもたくさんあるんです。
そんな人為的で不完全な環境で無条件に競争を信じれるはずがない。
競争原理というのは世の中をうまく動かしていくためのテクニックの一つであって、
それが世の中のすべてというわけではありません。
社会構成員の一人(プレイヤー)として「ゲームに乗る」のはもちろん大切ですが、ゲーム製作者の視点も必要です。

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というのが一つ。
あとBさんの主張には「人間社会の崩壊の容認」があったと思います。
その発想がどこから出てくるかを勝手に想像するとですね、
「世界を変えることはできない」ってところからきてるんです。
なぜそう思い込んでいるかというと、自分をゲームの1プレイヤーとしてしか見ていないからなんです。
非常に子供っぽい視点です。自分が仕組みに対して無力であることが前提になっている。
1プレイヤーならゲームのルールに従うしかないのは当然です。

でもね、人間というのはもっと包含的な存在なのです。
人間のやっているのは自分たちで作ったゲームを遊んでいるというだけです。
当然ながら、ゲームのルールを作ったり変えたりすることができるんですよ。

不満や問題があるならゲームのルールを変えることができるし、そしてそのように努力するべきなんです。
先ほど「ゲームに乗る」のが社会構成員にとって大切であると書きましたが、
ゲームの不備や問題点を修正するのも構成員にとって義務であると考えます。
なにかがおかしいと思うのであれば黙って愚痴を言っていても駄目です。
愚痴を行動に変更しましょう。
ブログに書くだけでも何もしないよりはいい(と信じたい)