『雲のむこう、約束の場所』という名の病

雲のむこう、約束の場所」という映画があります。

これは新海誠って人が作成したアニメーション映画なんだけど、
すごくすごく気持ち悪いんですよ。

その気持ち悪さについて書いてみようと思います。

北海道がロシアに占領された「もしも」の世界。
パラレルワールド接触する研究が進んでいる。
研究を行った科学者の孫娘がいるんですけど、ずっと眠り続ける病気にかかってしまう。
その女の子を救おうとする男の子の話です。


まずは個人的には純愛ってところが気持ち悪い。
会ってもいないのに、何年もお互いに好きであり続けるんですよ?
現実的には「もしかしたら」あるかもしれないけど、
通信手段の整った現代ではまず起こりえない話です。

では、なぜわざわざ「お互いに会うことができない」というシナリオを作り出す必要があるのか?
それはですね、「片思いであり続けるため」です。
美しい思い出だけを残したい、んです。
もっと突き詰めて言うと「変わっていく現実を直視したくない」のですよ。
美しい思い出の中に生きていたい。

つまり現実逃避なんです。

確かに青春の一時期にそういう憧れが存在することは認めましょう。
でも、そういうのは幻想なんですよ。
老人の慰みに過ぎない。
若者には毒です。
Iridiumの考える「あるべき映画の姿」としては
この幻想を打ち破る方向に戦わないといけないはずなんです。




恋愛感情の本質は性欲です。
性欲による異性の選択にはレガシー的な妥当性(生殖に向いているか、とか遺伝子的に好ましいかとか)しかないんだから。

いかにそれが美しく感じられようとも、遺伝子残しゲームが供給する麻薬の一つに過ぎないんです。
性欲は「過去世界では比較的有利だった選択」を行うだけで、未来を保証するものではない。
性欲には未来は保証できないんです。

過去数万年と現代がどのくらい異なった世界であるかわからないんでしょうか?
確かに「若さ」や「健康さ」を尊重するような好みは現代でも有効でしょう。
そうでないと子孫を残せませんからね。
でも、過去に比べて世界はどんどん複雑化しているのです。
共同作業するとか、一緒に生活するとか、複雑な仕事をこなすとか、
交通事故に気をつけるとか、痴漢しないとか、やたらと他の異性に手を出さないとか
そういう性能のほうが人間としては重要になってくる。

恋愛はそこいらへんを保証することはない。
恋愛というのはレガシーなので、そもそも現実的な判断ではないんです。
現実に生きていく我々にとっては、美しいだけの幻のようなものです。


この映画はそういう幻を追求したいって言ってますが、Iridiumは幻の追求には反対です。

カートヴォネガットも言っているように「愛は消えるが親切は残る」のです。

感情というのは不確かなものですし、
多くの結婚を見ればわかるように愛というのはいずれ消えるものなんですよ。
愛が消えたからといって死ねるのならいいけど、その程度のことでいちいち死んでいられない。
失恋した後も人生は続くのです。




物語全体をそこに頼ることはできない。
つまり「人生を恋愛に生きる」ということが現実的には難しい。
中にはそういう人生をおくっている人もいますが、
現実にやろうとすると非常にスキャンダラスな生活になってしまう。
幻想を追いかけるだけの人生になる。
人生が幻想に負けて食い尽くされてしまう。

そういうことはちゃんと一人の人と恋愛して、完全に破綻してみるとよくわかると思うのですが。*1

新海誠さんはあいかわらず恋に恋している状態みたいで人間の恋愛の美しい一部分しか見ていない。

15歳くらいの少年の感性のまま。
大人である自分が見るとものすごく違和感がある。

新海誠さんはいい大人になっているにもかかわらず、
夢の物語を無批判に受け取っているように見える。

客観性を感じない。
自分を批判することがない。
大人として自分を見るということをしていない。
ずっと子供の世界観に浸り続けている。

そういう態度には断固として反対します。
あまりにも未来がない。

「恋愛に失敗したら自殺しろ」と言っているようなものです。

そんなことを言っていたら普通の人は命が何個あっても足りません。
現実には恋愛というのはそれほどたいしたものではない。
幻想というのはあくまでも生活を豊かにするために存在するべきであって、
「人間が幻想のために生き」るべきではない、というのがIridiumの立場です。

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というのがまず1点で、もう一つ気になることがあります。

ネタばれなんで、ここから先はそれを前提に読んで欲しいです。























映画内の設定では、ロシア(映画中は別の名前になっている)がパラレルワールドを広げる研究をしている。
パラレルワールドのサイズは一定のポイントで停止していて、
それはヒロインの女の子が眠っているために停止している。
彼女が目覚めるとパラレルワールドが拡大して、その別の世界に飲み込まれてしまう。


主人公は夢で彼女が目覚める方法は、研究施設に近づくしかないと知って、
自作の飛行機で彼女を連れて研究施設まで飛ぶことを目論見ます。

しかし、同時にパラレルワールドに飲み込まれるのを防ぐために施設を破壊する計画が動き始めています。
軍部から主人公はその施設を破壊するという使命を負わされます。

で、この映画の主人公は女の子を目覚めさせた後にバカ正直にもちゃんと施設を破壊してしまうのです。

あのですね。

ちがいます。

本当にあるべき物語は「施設を破壊しない」です。
パラレルワールドに飲み込まれちゃっていいんですよ。
全宇宙を別のパラレルワールドで上書きしちゃいましょう。
そしてその世界というのは「今観客の存在するこの現実世界」です。

そういう物語構成にすることによってはじめて観客は現実世界に戻ってこれる。

物語が現実に接続できるんです。
映画が現実になるんですよ?
(ま、少々古い技法ではありますが、効果的だと思います)

それができるのに、なぜやらないのか?

この辺の神経が信じられません。
SFを何だと思っているんでしょうか。
現実世界についての認識をひっくり返さないSFなんてSFの風上にも置けないと思うのは自分だけでしょうか。

まったく、なぜやらないんだろう。
さっぱりわからない。

SF的な設定はあくまでも小道具であって新海誠さんにはどうでもいいことなのかもしれない。
でも自分にはとても違和感があります。

せっかく開きかけた扉が閉じてしまったような残念感。

戻るべき現実世界はそっちじゃない。



ちなみに彼の前作についてこのブログで以前少し書いています。
映画『ほしのこえ』と新海誠

*1:この文章を最初に書いたときには「結婚に失敗してみればわかる」という表現だったのですが、「それはおかしい」という突込みが。確かにその通りですね。結婚はまた少し別な問題でした。すいません