道徳教育を強化すべきなのか

マナー悪化、道徳教育強化に92%賛成…読売世論調査

あらゆる時代において「最近の若者は〜」という言説は繰り返される。
それは何を意味するかというならば、下記のようなものだ。

1、自分が過去に学んでいなかった(若者であった)ことを忘れている
2、「世界が変化していくものである」ということを認めたくない
3、過去を美化したい気持ち
4、現行の若年世代との価値観の相違

これはごく一般的なバイアスであって、なかなか簡単には逃れることができない。

少年犯罪統計データをみればわかるのだが、
昭和30年代は現在の状況に比べてみると少年犯罪はものすごく多いし内容も凶悪だ。
平成16年と昭和34年あたりを比べてみると殺人に関しては5倍以上だし、強姦についてはなんと20倍以上もの開きがある。
現在60代や70代になっている人たちが少年だった頃にはまわりは犯罪だらけだったのだ。

ところが老人たちが現在の若者を褒め称える言説を行うところを見ることはない。
Iridiumは見たことがない)
彼らが若者であったときに比べてみると現在の若者は奇跡的といっていいほどに品行方正であるというのに。

この傾向が示す結論はたぶん、
「最近の若者は素晴らしい」という言葉が社会の多くの人々にとって共感を持って語られることは未来永劫に渡ってありえない、ということだ。*1

人間は現状を肯定したがる生き物だ。
日常生活を円滑に過ごすためには日常の肯定が欠かせない。
日常の動作をいちいち批判していたらそれだけで消耗してしまう。
だが、あまりにも現状の肯定志向が強いために、「変化を許さない」という方向にベクトルが向いてしまっている。変化を許すことは現状の否定に繋がってしまうからだ。
安定的な社会においては「変化」を象徴する存在である若者については、常にマイナスのバイアスが存在する。



92%の人々は思い知るべきだ。
自分たちが単に印象に従っているに過ぎないということを。

愚かさに気がつくべきだ。
誰もがはまりうる単純な罠にはまっていることに。
「自分たちは馬鹿です」と宣言していることに気がつくべき。

この統計は「どのくらい人々が心理的な罠に鈍感か」を知る手段になっている。
92%もの人々が騙されている。
いかに現在の社会が内省的でなく、心理的現象についての認識が洗練されていないか、ということを示すものだ。

同時に、多くの人々の「現状を肯定したい」という願望を示している。
この統計では「若者」というのは当て馬に過ぎない。
「若者」なんてものは存在しない幽霊みたいなもので、一種の記号になっている。
92%の人々が「現状を肯定したい」と願っているという統計なのだ。

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道徳というのは一体なんだろうか。
具体的になにをどう教えれば道徳は身につくのか。
アンケートに答える人たちはそんなことは認識していない。

「電車では老人に席を譲りましょう」というコンセンサスを生徒に与えるために授業として実施することを想定してみる。

たとえば下記のような内容が考えられる。
・老人の生き難さ、疲労の蓄積度合いや運動能力の低下
・社会として弱者を保護するべきである、という根拠
・反抗することはステータスにはならない


これらを学ばせることは容易ではない。
老人の生き難さをどうやって説明する?
社会でもっとも健康的な人々に肉体的ハンデについて説明するという難しさがある。
億万長者に成りたての人に「貧しい人に寄付しろ」と言うようなものだ。

社会として弱者を保護すべきであるという要求には、
社会の成り立ちや人間同士の関係のあるべき姿の議論が必要だろう。
これは高度な議論なので、全員に完全に理解させることが難しい。
たぶんアンケートに答えた人の中でも理解していない人が多いだろう。
「社会的にそういうあり方が望ましいからである」とかそういうことを理解せずに行動している。
そういう行動は慣習による動作でしかないのだが、
本来「(盲目的に)慣習を身に付けさせる」のは教育の意図するところではない。
「なぜそうなのか」ということを完全に納得させなければ教育とは言えない。
そして、それは非常に難しい作業なのだ。
本質的な教育というのは時間がかかりすぎる上に、「全員が確実に学ぶ」とは言い切れない。
教師に向かって「努力しろ」と言うことはできるが、現在の学校に果たしてそれが可能だろうか?
Iridiumは無理だと思います。


「反抗することはステータスにならない」を生徒に納得させるためには
「学校が閉鎖空間であり特殊な価値観の横行する世界であること」を言うことになり、
これは学校の存在価値を揺るがす危険な授業となってしまう。
学校制度そのものの欠陥を洗い出すことになる。


道徳の時間にどんなに題目を唱えようが、単なる反復ではマナーは改善しない。
教室で「電車では老人に席を譲りましょう」といったところで、
実際にそういう行動を生徒が行うようになるとは到底考えられない。
「教育がマナーを改善する」などというのは神話であって、苦肉の策とか責任転嫁に過ぎない。

「教育」ではなく「調教」なら可能だ。
調教は現実的効果は大きいし、実現可能だ。
調教すれば即時に若者のマナーは向上するだろう。

電車で教師が徘徊するなどの強圧的な対応をすること。
ささいな違反にも徹底的な罰を与えることだ。
そうすれば多くの生徒は従順になる。

人間ではなく家畜として扱うこと。
「マナーを向上させるために学校でなんとかしろ」という人が納得するような現実的にすぐに効果を表す施策はそれしかない。
「権力に従う」とか「長いものに巻かれる」ということを実践する人間が出来上がる。

「マナーを学ばせろ」というのはそういうことを言っているのだ。
アンケートに答えた人たちは気がついていないが「若者を奴隷として、家畜として扱え」というリクエストになっている。
果たしてそんな学校に行きたいだろうか?
自分の子供をそんな学校に行かせたいだろうか?
従順なロボットを作るにはいい学校だろうが。

社会に存在する多くの仕事は下っ端の仕事だから、ロボットの存在価値は大きい。
だがトラウマを持つ人間は増え、本質的な問題を改善する能力を持った人間はいなくなる。
社会全体が硬直し、官僚的になっていくだろう。共産社会みたいだ。
そんな社会が国際競争を勝ち抜いていけるはずがない。
いかに組織的人間を量産しても、それが社会全体の効率に繋がるわけではない。
北朝鮮マスゲームを見ればわかるが、いかに組織力が高くてもそれを有効に使えなければ意味がない。

日本は現状でも世界でもっともマナーのよい国の一つであることは間違いない。
日本人が欧州で「最も良い観光客」に、「最悪」はフランス人。

これ以上マナーを向上させる相対的な必然性はない。
そんなものを向上させるくらいなら、もっと他にやるべきことがある。

*1:もしかしたら、非常に政情が不安定な社会では若者が賛美される瞬間がありえるのかも?