法律が人を裏切るとき

先日から議論を続けている友達に、法律の不完全性について説明するためのエントリです。

1、
法律というのはまずは日常的な存在ではない。
我々は通常、法律を意識しながら生活することはないわけです。
生活のほとんどは法律を意識しなくても送ることができる。

単純に日常的な常識のようなものに従っていれば、法律などは不要なのです。
多くの人は法律とはほぼ無縁なまま一生を終わる。

法律が必要なのは日常から逸脱したとき、
なにか問題が発生したときには法律の出番です。

つまり、法律は危急時にしか必要ではないのです。
セーフティネットのようなもの。

2、
法律は我々が自己統治を行うためのルールの具現化です。
この意味は、「あくまでも自己統治が目的であって、ルールを維持したりルールを作ることが最終目標ではない」ということです。
強固なルールを美しく作って守っていくことは運営上は有利ですが、
「強固さ」や「美しさ」は本質ではありません。
多くのケースではだいたい法律の言うようにしておけば間違いがないのですが、
法律がその成立目的に叶わないケースというのも当然発生します。
(人権を抑圧するような場合など)
「自己統治」という目的に叶わないのであれば、容赦なく法律などはかなぐり捨てるべきです。


3、
法律は「セーフティネット」であるために、
グレーゾーンについてはあまり言及しない傾向にあります。
(そうであるのが法の正しい姿ですが)
法律の運用は判例と現場の人間の判断に大きく影響されます。
つまり「運用まかせ」なのですが、法律を運用している人間が過ちを犯した場合には矯正できないことがあります。
運用者の過ちには極めて寛大です。

といったようなことについて、以下に順不同でいくつか例を出します。

また冤罪か?疑問残る「白バイ警官死亡事件」有罪判決
http://www.j-cast.com/tv/2007/10/31012758.html
高知の冤罪事件(きっこのブログ
http://kikko.cocolog-nifty.com/kikko/2007/10/post_f6dd.html


痴漢冤罪(NHK
http://www.youtube.com/watch?v=bYNMgnFrhvc

どうして国策捜査は行われたか(とてつもなく面白い『国家の罠』2)
http://khblog.seesaa.net/article/3448882.html

国家の罠―外務省のラスプーチンと呼ばれて (新潮文庫)

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正義の罠 リクルート事件と自民党 二十年目の真実

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東京裁判池田信夫
http://blog.goo.ne.jp/ikedanobuo/e/ffc5fa723e08a1cab0fda1bf29fd044d

闇買いを拒否し餓死を選んだ二人
http://homepage1.nifty.com/zpe60314/se50-2.htm

信号無視をする論理
http://todomatsu.com/archives/2004/11/27/post_683.php