ナショナリズムとはなにか

僕は高校野球が嫌いです。
まずはスポーツしている他人に共感するという体験が嫌い。
他人の肉体感覚を擬似的に自分が感じることがイヤ。

結局のところ自分はなにもしていないのがイヤ。
ドキドキしたり汗かいたりするるのに、結果として何も残らない。
無駄すぎる。

スポーツは自分がプレイしないと意味がない。
同じ体験をするなら映画のほうがまだしもです。

映画の体験のほとんどはまず自分が体験することはないようなものばかりなので。
現実世界では無理なものを映画で体験することには意味がある、ような気がする。


で、その上に高校野球はものすごく金かかってます。
選手を揃えるのに金がかかる。
グラウンドを整備するのに金がかかる。
自分の出身高校は、野球部にのみ専用のグラウンドがあり、専用の屋内練習施設がありました。
強いといわれている高校は人材を金を積んでスカウトしてきます。

これ、明らかに高校生のスポーツとしては歪んでます。
お金のない田舎の小さな高校ではよほど運良くいい選手が集まらない限りほとんど勝ち目がない。

そういうスポーツを見て楽しいですか?
毎回優勝争いに顔を出す高校の裏には、理不尽に負けていくたくさんの人たちがいます。
どんなに努力しようがほぼ勝てない戦いに出るために頑張っている。


テレビでいったいどこの高校を応援しますか?
自分の出身地域の高校ではありませんか?

人間は自分が過去に所属していた、もしくは現在自分が所属している団体や地域に
否応なしに親近感を抱くようになっています。
それは強力なエンジンです。
でもそれは強力なだけで、方向性については盲目です。

高校野球のように、一旦「地域への親近感」に取り込まれてしまうと、そこから逃れる術はない。
毎年自動的に「ほぼ絶対に優勝なんかできっこない野球部員」を大量に生産することになる。

例えば、誰も高校野球にお金を出さなければ、このような理不尽な現象は発生しません。
でも、もうこの状態を修正することは不可能でしょう。
高校野球についてはもう絶望しかない。

強力なエネルギーについては常に気をつけていないと、
思わぬ方向に物事は進んでしまう。

「地域への親近感」の延長上にナショナリズムがあることは間違いありません。
ナショナリズムには注意が必要です。
それは気性の荒い牛のようなもので、次にどっちに行くか分からない怖さがある。
間違った方向に向かったときのダメージは非常に大きなものになる。
使い方を誤まると恐ろしいことが起こる。
そして我々はそれをコントロールできるとは言えないのです。
すでに何度もコントロールに失敗している。

ナショナリズムが次に何をしようとしているのかについては、
いつも気をつけておく必要があります。
高校野球はもう手遅れだけど、この次に発生する何かについてはまだ間に合うかもしれない。
できることなら早めに方向性を修正するべきです。