『プラダを着た悪魔』とファッションの封建性

プラダを着た悪魔』という映画を観ました。
(結末に関するネタばれを含むので、’純粋に物語を楽しみたい’という人はこれから先を読まないでください)

これはカルトの教祖的な絶対的権力を持つファッション雑誌の編集長(メリル・ストリープさん)の下で働く新人アシスタントの物語です。

編集長が出版社のメンバーに課しているルールがあまりにも専横的というか封建社会なので笑えます。
階級社会の模倣なんですね。
アシスタントは上位の人の奴隷に近い存在。
ぜんぜん現代の世界っぽくない。
時間外勤務は日常茶飯事で編集長の私事に使われることもあり、召使いみたいな仕事(たぶんアメリカでも労働基準法違反)です。

戦争では私情は禁物

この専制君主的な編集長のやり方にも一理あって、組織内部での面子や、人の感情を考えてしまうと、その組織自体の効率は低下してしまう。
もちろん「人の感情」や「面子」が保たれるに越したことはないのだけれど、
あまりその点にばかりこだわっていると組織としては弱体化してしまう。
強い組織であるためには、組織内部の事情で物事を決定してはいけない。
組織内の不和を避けることばかりを気にしているようでは最適解を選択できず、他の組織に対する競争力を手に入れることができない。

ということを考えるのは最近、
「失敗の本質」という第二次世界大戦中の日本軍の数々の敗北について書かれた本を読んでいるからなんだけど。
日本軍は人の面子とかを大事にしすぎるんでかなり痛い失敗してます。
作戦の成功よりも「集団の和」のほうが重視されちゃってるのが問題です。
文化的な問題なので日本は今後何度も同じ問題にぶつかることでしょう。
その点についてはアメリカは伝統的にクリアできているぽい。
組織としての成功を最重要課題に持ってくることができている。
(逆にそれが問題になることもある、ということがこの映画では描かれているわけですが)


この映画は「人を切り捨てることも仕事のうちで自分のためで(も)ある」という編集長の冷淡な態度に絶望した主人公が仕事をやめます。
主人公としては「他人を道具として切り捨てる」という態度に我慢できなかった。
合理的な階級性をとる組織は、そういう弱点があるので常に気をつける必要がある。
「人を切り捨てる」というのはあくまでも組織の大目標のために(しかたなく)行われる苦渋の決断でなくてはならず、
単純な合理性や「自分のため」というだけでは主人公を納得させる理由として十分ではない。

個人的な利益追求(=「自分のため」)というのはつまり「ゲームに飲み込まれてしまっている」ということです。*1
自分の人生を豊かにする手段の一つであるはずのそれが逆に人生のすべてになってしまっている。
組織に参加している人たちはそれが一つのゲームであることに常に気を配らなくてはならない。
ほっておくとゲームに飲み込まれることになる。*2

自分がルールを作る立場なんだから、ルールを客観的に見れないと駄目です。
そういう意味ではルールの中にどっぷりと浸かっている「叩き上げの社長」みたいな人には客観性が不足しがち。(「ゲームのルールに従っているから十分だろう」と考えてしまう)

上に立つ人は「組織がただのゲームである」ってことを認識していないと、(この映画で主人公が辞めていったように)部下を失うかもしれない。全体を俯瞰できる位置にいることが必要で、ゲームに飲み込まれてしまってはいけません。*3

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ファッション業界のつまらなさ

という風に部分的に封建制を肯定するような記述をしてきたんだけど、実はそこは根本的に間違っていて、
実はファッション業界の封建制ってのはすでに時代遅れなのかもしれない。
ファッション業界の封建主義性ってのは、ファッションそのものの限界を示しているようにも思う。

たとえば、流行が繰り返されるということ。
総体としてはなかなか前に進まない。
新しいものが出てこない。デザイン的な驚きや発見が少ない。
それは
1、大衆が美を感じることのできる限界*4
でもあり、
2、感性そのものが持つ保守性*5
ということでもある。
そういうことって、多くの人に同じものを供給しようする以上は逃れられない制約なんです。


個人的にはファッショントレンドというものは、ほとんど死んでいる。
死ぬまで同じデザインで同じ色の服を着ていてもかまわないくらい。

驚くような新しいファッショントレンドというものは存在しない。
現在のデザインのほとんどは飴のようなもの。
(「飴のようなもの」=瞬間だけちょっと甘くておいしくて、でもすぐに消えてしまうようなもの、栄養にならない)

主人公が最初に登場するときに着ている(「かっこ悪い」と劇中では定義されているトラッドな?)服装のほうが僕は好きだ。
後半に主人公が着ているようなファッショナブルな服というのは人間味を感じない。
肉体を物として扱いすぎ。

確かに美しいけど、あれは人間を飾り物にする服です。
奴隷として人を売るための服。イベントのときだけ着るようなある種の楽しいジョークとしてはいいと思うのだけれど、


生活していく人間の着るものではない。
一種の仮装なのです。
仮装を毎日着るわけにはいかない。
美大出身の自分が言うのもなんですが、人間は「純粋に美しさに生きる」ってわけにはいかないんですよ。

もしも「私は飾り物であって、それ以外の何者でもない」というのなら、
ファッションモデルが着るような服装を日常的に着るのには意味がある。
でも、多くの人はそういう風には思って生きていない
と思うんですよ。*6

ちゃんと意思を持った一人の人間であろうとしているはずです。
誰かの奴隷や人形であるわけではない。
パーティやお祭り用ではない日常的な服、は肉体のディスプレイではなくして精神性(みたいなもの)を表すべきだと思う。


ごく普通の服の中にも味わいやセンスがあるし、
多くの人が追求するべき(したいと思っている)のは、普通の服の中にある美しさ(=普通である自分の美しさ)のはず。

すぐに消費される目先の変わった飴みたいなデザインが供給されることではないはずです。
もちろん飴が大好きな人もいるとは思うのですが、Iridiumが日常的に見かけるほとんどの人(亀有の道を歩いているおじさんとか)はどう見ても飴好きじゃない。

MSNビデオで最近のコレクションをたまに見るんですけど、ほとんど見るべきものがない。
新しいアイデアはなくて、単に「これからこれを流行らせますよ」っていう業界シグナルにしかなってない。
そんなやり方では多くの人のファッションを豊かにすることはできない。
上意下達では全員の欲求を満足することがない。
一部の人の中にファッションを閉じ込めてしまっている。

民族衣装の成り立ちなどを考えてみるに、本来ファッションというのはそういうものではないはずです。
誰かから与えられるって感じじゃない。
「もっとも多くの人がもっとも自分に合った服を着る」というのが正しい答えという気がします。
現在のしくみではそこに辿りつけない。


特権的な一部の人々の供給するデザインモデルをありがたがるというファッション業界の構造には自分は反対です。

多くの人に徹底的に多くのデザインの中から(高速に)選択する仕組みを与えること、
「パーソナリティの表現」という機能をファッションに取り戻させる必要があると思います。
(現在でもそういう機能も果たしてはいるけど、選択範囲可能な範囲が狭すぎ)
そうすることがファッションにとって、もっとも面白く豊かな世界に繋がっていく。
個人的な理想ですが、あらゆる時代、あらゆるジャンルの服装が一つの空間にちょっとずつ同時に存在するような日常、というのが現出できると思う。
デザインを選択する自由を一部の人のものではなく、みんなものに。
ファッションの民主化希望です。

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

失敗の本質―日本軍の組織論的研究 (中公文庫)

*1:組織というのは何かを達成するための手段に過ぎないです。手段であるはずの地位の維持にこだわるのは本末転倒

*2:封建的なやり方の弱点は気をつけていないと、人間の平等性や自由さを損なう可能性があるところ

*3:もっと洗練された組織であれば、競争力を維持しながら、心理的なケアも同時にできるのかも?

*4:多くの人が*共通して楽しめる*要素というのはある程度限られてしまう

*5:感性というのはそれほど急に変化するものではないです。人間はなかなか変化できないものです。特に感覚的なところは難しい

*6:そう思っているなら日常的にもっとデザイナーの服が着られているはず