加害者を殺せ、という人たち

殺人とかで人が殺されたときにすぐに「加害者を殺せ」と言う人たちがいる。
被害者感情を考えればそれは当然、なのだそうだ。
でも「加害者を殺せ」という人たちを僕は信じない。

1、
そもそも被害者になった人の家族の感情なんてわかるはずがない。
それぞれの事件で被害者の家族はそれぞれ違った感情を持つ。
一律に感情を持つわけではない。

「人間の感情を想像できる」なんて発想は傲慢だと思う。


2、
「被害者家族の感情に比例した刑罰を与えろ」というのは理不尽。
「感情をなんとかしろ」というのはそれぞれの人の感情を計る作業になってしまう。
被害者家族の受けた「感情被害」に応じた刑を与えるべきだろうか?
もしも感情被害がものすごく大きかったら刑が高くなるのだろうか?
その場合は一人では負いきれないので、加害者の一族郎党を全員殺すべきでは?
拷問の末に殺したほうがいいのでは?
たまたま親戚に繊細な人がいてダメージが大きかったら?
あるいは家族から憎まれている人が被害者だったら、誰一人として悲しまないかもしれない。

人が死んだことによって誰一人として悲しまなかったら、殺した人は無罪になってしまう。

人間の価値が一人の価値ではなく「感情ネットワークの価値」になる。
孤独な人の価値は下がる。
ホームレスは殺してもいいことになる。
誰にも愛されていない人の価値はゼロになる。
ニートの人を殺してもたいした罪にならなくなる。

そんな話はないと思う。
自分がホームレスになったら殺されてもいいのだろうか?
家族が全員他界してしまったら自分は殺されても文句は言わない?

そんなことをやり始めると世界は一気に中世に戻ってしまう。

民事裁判では感情被害を金銭によって解決することはあるかもしれないが、
刑事裁判では一人の人間の価値は一定でなくてはならない。
刑事裁判で感情に比例した刑罰を与えることは現実的ではない。

3、
加害者を殺せは犯罪の抑止力になるだろうか?
そんなことはまずない。
殺人の刑罰を考えてから殺人を犯すわけではない。
事前に「何年間刑務所に入って…」とか計算できたりはしない。
そんな計算ができる人はそもそも犯罪を犯さない。
というか犯罪というのは病的な自己破壊衝動が原因であることが多いのだから、
死刑にしてしまうとむしろ加害者の目的を達成してしまう。

加害者を殺すことは単に死ぬ人を増やすだけだ。

4、
加害者はいじめのターゲットになっているだけに見える。
「社会的に自由に攻撃してもよい人」ができて、
それをみんなが安全なところから喜んで攻撃しているだけだ。
一種のお祭りになってしまっている。
「祭り」を僕は信じない。
人間が一時の気晴らしやショーのために殺されるべきではない。

本当に許せないのは場外で「殺せ、殺せ」と叫ぶ人たちだ。
彼らは自分の手を汚さずにショーを楽しむことができる。
事件や司法の全体を理解することなく、直感的に「殺せ」と叫んでいる。
彼らの無責任さは絶対に許すことはできない。